こんな風に思ってるの、自分だけ??

オッサンの独り言。よしなしごと。

脳死の人々

イケダハヤトさんのところで

個人メディアは「独断と偏見」が面白い—「中立性」なんてウンコ召し上がれ - ihayato.書店 | ihayato.書店

 

 

という刺激的なタイトルのついた(笑)記事があったので、読んだ人がいると思います、この記事。

 

メディアの中立性という幻想、そして独立性 | The Startup 

 

 

自分は議論が大好きです。議論に対して何らかの意見を持ち、それに反対されたら、自分の正しさを主張し、相手を論破してやろう、と思います。それは自分がその意見についてなにかしらの情熱を持っている場合の話ですが。そして、論破してやろうとは思うけれど、その相手に対して何らかの感情を持つということはありません。(まあ、その表現は正しくないな。こいつ馬鹿だなぁ、とか思うことはもちろんあります(笑)。)

 

なぜか。それは自分の意見だって変わるからです。それはお前の考えが未熟だからだろ、という意見もあるかもしれません。でも、どんなに偉い人だって、間違った発言をして、訂正したりするでしょ?(皮肉じゃなくてね。)正しい情報、新しい情報を得ることによって、自分の意見を翻すこと、ありますよね。間違ってたらそれを認めて、素直に自分の意見を修正できるほうがよほど偉いのです。そもそも、正しいか、間違いか、なんて、相対的なものだったりもするわけで。

 

言いたいことは、「中立的なもの」ってなによ?って話。何が正しいか、何が間違いかが相対的な世の中で、絶対的な中立なんて、ありえないと思いませんか?そして、それを求めるってどういうことなのかなぁ、と。

 

要は自分で考えたくない。答えだけ頂戴よってことなのかなぁと。そんなの、脳死じゃないですか。答えをください、あなたの答えを自分は信じていきます、ってこと?

 

そういう人が一番プロパガンダに騙される人じゃないですか(笑)。

 

だから私たちは常にいろんな意見に触れて、それを「自分はどう考えるか」という訓練をしなくてはいけないんです。この新聞はこういう見方をしている、このテレビはこういうことを言っている、実際のところはどうなんだろう?と考えること、です。

 

なんか、素直に人の言ったことを額面とおり受け取れないことって、性根が曲がってる証拠なんじゃないかって思っちゃうこともありますが、実際の顔が見えないような世界では人を見たら泥棒と思え、くらいに警戒してます、自分の場合は(笑)。